機能性表示食品制度の創設期や、大阪・関西万博では大阪ヘルスケアパビリオンをはじめ、さまざまな角度から健康産業をけん引してきた森下竜一氏(大阪大学寄付講座教授、日本抗加齢医学会理事長)に、今後のウェルネス産業とエビデンスの重要性について話を聞いた。そこで示されたキーワードは「ゼロ次予防」だった。その時紹介いただいた認知機能測定・トレーニングアプリは、その未来を象徴する一つの事例だった。
病気になる前の、さらに手前から
医療では一般に、病気の発症を防ぐ一次予防、早期発見・早期治療を行う二次予防、重症化や再発を防ぐ三次予防が知られている。森下氏が強調するゼロ次予防は、そのさらに手前に位置する。認知症でいえば、軽度認知障害(MCI)になる前、正常とされる状態から認知機能が少しずつ低下し始める「脳フレイル」の段階で変化に気づき、生活習慣を改善していく。重要なのは、本人の努力や意志だけに頼らず、自然に健康的な行動を選びやすい環境を社会全体で整えることである。

森下竜一氏(大阪大学寄付講座教授、日本抗加齢医学会理事長)
ソリューションそのものが「環境」になる
ゼロ次予防における環境というと、国が示す「自然に健康になる環境づくり」の表現から、公園や歩道、自転車道などの都市環境を思い浮かべやすい。しかし、森下氏が示す環境の範囲はさらに広い。AIやデジタルサービス、ホテル、住宅、食事、睡眠環境など、人々の生活習慣を自然に変えるソリューションもまた「環境」になるという。紹介されたアプリでは、約3分で脳年齢や注意力などを測定し、その結果に基づいてAIが利用者ごとの課題に合わせた約5分間のトレーニングを提案する。正解率や利用履歴に応じて難易度を調整し、日常生活のなかで認知機能の維持・向上を支援する。
ここで重要なのは、単に測定して終わらないことである。自分の状態を知り、その後の改善プログラムまでが一体となって初めて、生活習慣の変化につながる。
DXとAIが生活改善を支える
睡眠、筋力、認知機能などの健康データがデジタル化され、日常のなかで無理なく蓄積されるようになれば、ウェルネス産業の可能性は大きく広がる。利用者が毎回答えるアンケートだけに依存せず、生活のなかでデータを取得し、AIが一人ひとりに適した改善策を提案する。こうした仕組みがホテルやスパ、観光地、住宅、職場、地域へと広がれば、「健康になるために頑張る」のではなく、生活しているうちに自然に健康行動が身につく環境をつくることができる。一方、データを集めるだけで健康が実現するわけではない。どのような介入が変化を生み、継続的な改善につながったのかを検証する必要がある。森下氏が重視するエビデンスは、製品やサービスの効果を示すだけでなく、生活を変える仕組みとして社会に実装する
ための基盤でもある。
ウェルネス産業は「生活をデザインする産業」へ
医療、食品、観光、住宅、スポーツ、家電、保険、デジタル、AI、地域づくり。これまで個別に発展してきた産業が、「自然に健康になれる環境をつくる」という共通の目的でつながっていけるのかもしれない。ウェルネス産業は、運動施設や健康食品を提供する市場だけではない。健康状態を測り、気づきを与え、改善方法を示し、無理なく継続できる生活環境まで提供する「生活をデザインする産業」へと変わろうとしている。
JWMの視点
ゼロ次予防としての環境づくりは、まちづくりだけではない。人々が自然に健康行動を選び、生活習慣を変えられるソリューションを社会に実装することも、重要な環境づくりである。ウェルネス産業の価値は、「測る」こと自体ではなく、その結果を「生活が変わる仕組み」へつなげることにある。人に「健康になりましょう」と呼びかけるだけでなく、気づけば少し健康的な生活を送っている。そのような環境を提供する産業へ進化できるかどうかが、次の成長を左右する。
森下氏が話したゼロ次予防は、ウェルネス産業の対象を、個別の商品やサービスから生活環境全体へと広げる考え方である。その産業への浸透は、これからの健康社会を考えるうえで、ますます重要になるだろう。
